「ミキ。今までありがとうな──」
そう言って、あいつはあたしの元から去っていった。
強い決意を湛えた瞳。それなのに泣いてるようにしか見えない、あいつの顔。それが霞んで見えなくなる。
一歩、また一歩とあいつは遠ざかっていく。心も体も離れていって、もう掴めないくらい遠くなっていく。
バレンタインデーの時も、そしてついさっきも。結局言えなかったあたしの素直な気持ち。もう二度と言えないかもしれないこの想いが行き場所を失って、あたしの中で色々なところにぶつかりながら縦横無尽に駆け巡っている。
胸が痛い。苦しい。熱い涙が止まらない。
嫌よ。行かないで、光刃──
あたしはあんたが好きなの! 愛しているの!
いつだってあんたと一緒にいたいんだよ──
そう叫びたかった。ギラン中の人に聞こえたって構わない。叫んでしまえば、今のこの辛い気持ちも少しは収まってくれるかもしれない。
そう思うのに、あいつの言う「最後」という言葉が心に突き刺さって、あたしはただただ子どもみたいに座り込んで泣いていることしかできなかった。
§
ミキちゃんから相談を持ちかけられたのは、ホワイトデーの翌日の夜だったかな。ギラン北口にかかる橋の袂で、ボクはミキちゃんの話を聞くことにしたんだ。最近はこの橋もあまり人が通らないから、込み入ったことを聞くにはちょうどいい場所だった。
それは相談というより、誰かに話を聞いてもらいたいという感じだった。ボクに白羽の矢が立ったのは、きっと【ミスリルを冠する者】に同性はボクだけだからだと思う。でも、そんな理由でも、あの勝ち気で姉御肌のミキちゃんから頼りにされている感じがして、ボクは少しだけ嬉しかったんだ。
盟主──娘ちゃん──とあまり歳の変わらないボクはやっぱり恋愛経験もなくて。恋の悩みを打ち明けられても、きっといいアドバイスなんてできない。でもミキちゃんはそれをちゃんと分かっていたみたいで、ボクに意見や助言を求めてくることはなかったんだ。きっとミキちゃんの中で、もう答えは出ていたんだろうと思う。
ミキちゃんは前の日からずっと泣いていたみたいで、声がひどく掠れてしまっていた。ボクは目が見えないけれど、きっと目も腫れ上がってひどいクマができているんだろうな。
ミキちゃんの口調はいつもよりちょっと強めで怒っているように聞こえた。でもそれは、自分の気持ちに押し潰されないようにする為の精一杯の虚勢なんだって、すぐに分かった。きっとミキちゃんはこれまでにないほど傷ついているんだ。ミキちゃんの過去は確かに辛いものだと思うけど、それとは違う傷つき方でボロボロになってる──。
そんなことを考えながら、ミキちゃんの話を真剣に聞いていたんだ。
「…バカ光刃。何が不幸にするかもしれないから、よ! あたしはあいつの後ろめたい過去だってまとめて好きになったっていうのにさ…」
「…うん。そうだね。人を好きになるってこと、ボクにはまだよく分からないけど… ミキちゃんが真剣で、ミコちゃんも真剣だってことはよく分かるよ」
「そうよ! あたしはあいつと居るときはいつだって真剣だったわよ! でもさ…あたしは素直になれない女でさ。ツンデレとか言われるの嫌だけど、でも悔しいくらいそんな性格でさ… あたしはこんなに真剣なのに、どうしてあいつはあたしのこと受け入れてくれないのかねぇ…」
ミキちゃんはまた泣きそうになってる。泣くことで落ち着くならいくらでも涙させてあげたいと思えるくらい、声の調子が何とも痛々しかった。
どうして受け入れてくれないんだろう、か──。
それはミキちゃんの独り言で、ボクに答えを期待している訳じゃないのは分かっていたよ。でもそれを聞いて、ボクはあることを思い出した。ミコちゃんについて日頃から感じていた「それ」を思い出したボクは、伝えていいものか悩みながらミキちゃんに話してみることにしたんだ。
「…ミコちゃんはきっと、誰よりも自分の過去を怖がっているんじゃないかな。ボクは目が見えないけど、ミコちゃんが時々震えているのが分かるんだ。特にミキちゃんと一緒にいる時にそうなることが多いかな…」
「そう、なんだ…」
やっぱりミキちゃんはそんなミコちゃんの様子に気づいてなかったみたいで、そのことに明らかにショックを受けていた。
やっぱり伝えない方がよかったかな──。
そう反省しかけた時、ミキちゃんは力なく笑いながらこう言ったんだ。
「…ふん。どうせあたしに両手剣で襲われるって思って、ビクビクしてたんじゃないの? どうせ当たりゃしないけどさぁ…w」
それはとてもミキちゃんらしい切り返し方だった。ショックを受けている自分が恥ずかしくて、それを隠そうとして冗談を言っているのがよく分かる。
ミコちゃんのことならきっとボクなんかよりよく理解しているミキちゃん。だから、ボクに気付けて自分に気付けなかったことが悲しかったんだと思う。
だけど、ボクが感じたミコちゃんの「震え」は普通の人には感じられないものだから、それは仕方ないと思うんだ。
ボクの左耳には小さなフェザーが付いている。ヘアアクセサリのひとつとして一般に流通してるものと同じだけど、ボクにとってこれはただの飾りじゃない。ボクが【ミスリルを冠する者】になった時に娘ちゃんからもらったフェザーということもあるけど、もちろんそれだけじゃない。
背中の片翼と共に周囲の様子を感じ取るセンサーの役割を持っていて、周りの人の細かな様子まで手に取るように分かる。目が見えなくても戦うことができるのは、半分この娘ちゃんのフェザーのおかげなんだ。
ボクはそのフェザーをやさしく撫でながら、ミキちゃんとの会話に意識を集中させた。
「ミキちゃん…。照れ隠しにそういう冗談を言うから、みんなからツンデレって言われるんだと思うよ」
「いや、あたしツンデレ違うからさ」
「今はそれは置いておいて、話を戻すね」
「スルーかいっ!」
「…自分が大切な人の隣に居ること。それが怖くて仕方がないんだと思う。きっとミコちゃんは、過去の事件の報復をいつ受けても仕方ないと思っているんじゃないかな」
「なんか、あいつらしくないけどね… でも、ミクちゃんの言うこと、ちょっとだけ分かる気がする。いつも葬式みたいな辛気くさい顔してるしね、あいつ…。
ま、あいつならどんなヤツが襲ってきたって返り討ちさね。このあたしが認めた男なんだからさ!」
「…襲われた時に、傍にミキちゃんがいると巻き込んでしまうって考えているんだろうね。それとも、もしかしたら…」
「…あによ?」
「もし、自分が殺めてしまった相手が再び現れて、襲ってきたとしたら。ミコちゃんはきっと…」
「あ…」
それまで威勢の良かったミキちゃんが、急にしおらしい雰囲気に変わったんだ。きっと、ボクと同じことを考えていたんだろうと思う。
「…そうね。あいつはそういうヤツだから…」
(抵抗せず死ぬつもり、か…)
「…でも、それなら余計あたしが必要でしょ? その… 終わった後にさ、リザしたりしてやんなきゃ…」
「…ミコちゃんはミキちゃんに、自分が殺されるところを見せたくないんだと思う。ミコちゃんが恐れているのは殺されることそのものより、それを見てしまったミキちゃんへの影響だと思うな…」
「あたし… あたしはそんなに弱い女じゃないわよっ!」
「…ミコちゃんはそういう人なんだね。不器用だけど、どこまでもやさしいんだ…」
「…バカ… あいつホントにバカね…」
ミキちゃんはそれだけ言うと、静かになった。泣いている感じもない。
どうやらボクの役目は果たせたらしい。ボクは小さく息をつくと、そのままミキちゃんの隣に座りながらひんやりとした夜風を感じていた。
§
「──という感じで、とても辛そうでした。ボクだけに話してくれたことだけど、やっぱり盟主の娘ちゃんにも知っておいてほしくて」
「うんうん…。ミクちゃん、お話しにくいことを教えてくれて、どうもありがとぉ」
バレンタインの時に、あんなにがんばってチョコ作ったのになぁ。そんなことになってるなんて…わたしの方が泣きそうだよぉ。
ミクちゃんからミキちゃんのお話を聞いたわたしは、ミキちゃんとお話してみることにしました。
ミスリル・リンクにはアジトがありません。だから、込み入ったお話をするときは村の中であんまり人のいない場所を探してお話します。
今日はグルーディン村の武器・防具屋さんにしてみました。いつも狩りしてる場所からは離れちゃうけど、今のミキちゃんには逆にその方がよさそうだったから。
「一緒にひいおじいちゃのとこ、行きます?」
ミキちゃんにそう聞いたら、ちょっとだけ不思議な顔をしてからおっけーしてくれました。やっぱりいつもの場所から離れるのも大切なことだもんね。
ギランからてくてく歩いて、処刑場を越えてディオンを越えて… ようやくひいおじいちゃんの村、グルーディン村が見えてきました。
グルーディン村は港町です。今はあまり使う人もいないみたいですけど、昔は船で旅をする人たちが船着き場で船を待っている姿も見られたみたい。そういう待ち時間の雑談で仲良くなって、冒険仲間になる人たちもいっぱいいたんだって、ひいおじいちゃんは教えてくれました。今はあんまり想像できないですけど、なんだかそれものんびりしてて楽しそうかもって思いました。
わたしは遠くから聞こえる波の音を聞きながら、潮の香りを胸いっぱいに吸い込みました。
これがひいおじいちゃんがいつも吸ってる空気なんだなぁ。
そう思うとなんだかうれしくなってきて、はやくひいおじいちゃんに会いたくなって走り出しちゃいました。ミキちゃんは苦笑いしてましたけど、ちゃんと付いてきてくれてます。あうあう… ひとりではしゃいじゃって、ごめんなさぁい。
グルーディン村の広場の真ん中に、ひいおじいちゃんは座ってました。いつもどおり「DSS@10A」って露店表示を出して、じっと座ってました。
居眠りしてるのかなぁ… って思いましたけど、ちゃんと起きてたみたい。話しかけるとにこにこしてくれました。
「ひいおじいちゃ、おはよぉ」
「おや、ひ孫かの。こんな辺境の村まで来るとは珍しいのぉ」
ひいおじいちゃんはとってもうれしそう。そんなひいおじいちゃんを見てるとわたしもうれしくなって、わたしまでにこにこしちゃいました。
ホントはミキちゃんのお話を聞くためにここまで来たんだから、あんまりにこにこしていられないんですけど、ね。
そんなことを考えてわたしがちょっとうつむいたら、ひいおじいちゃんがわたしの頭をなでながら言いました。
「まぁ、お前さんも盟主じゃて。色々あるじゃろうが、しっかりの。自分が正しいと信ずる道を堂々と進むことじゃ。お前さんはあの父親と母親の娘であり、わしのひ孫なんじゃからの」
はっとして顔を上げると、ひいおじいちゃんはわたしにウィンクしてくれました。ひいおじいちゃん、わたしが悩んでるの分かったのかなぁ?
たまにこういうことをさらっと言えちゃうのが、ひいおじいちゃんのすごいところ。わたしもそれを聞いたら勇気が出てきて、ミキちゃんの為にしっかりしなきゃって改めて強く思いました。ありがとぉ、ひいおじいちゃん!
「うん! それじゃあ、ちょっと向こうに行ってくるね。またあとで来まぁす」
わたしはひいおじいちゃんに手を振って、ミキちゃんは軽くおじぎをして広場をあとにしました。
雑貨屋さんの向かいにある武器・防具屋さんは、中に入ってもお客さんはひとりもいませんでした。お店番をしているおじさんがとってもひまそうにしてます。こういうの、かいてんきゅーぎょーって言うんだろうなぁ。
ミキちゃんと一緒に絨毯の上に座って、ひとやすみひとやすみ。お店のおじさんも気にしてないみたいだから、ゆっくりしようっと。
「結構歩いたから、疲れちゃったね。ミキちゃんだいじょうぶ?」
「ひさしぶりに体を動かしたら、少し元気になったわよ。ちょっとした旅行気分だし、連れてきてくれてありがとね」
少し元気を取り戻したミキちゃんがそこにいました。よかった。これで少しお話しやすくなったよぉ。
でも、やっぱりすぐにはミコちゃんのお話に入れなくって…
この間のクラハンのこととか、お母さんの物語のこととかをおしゃべりして、リラックスしてもらうことにしました。
でもそんなおしゃべりも一段落しちゃって、わたしがどうしようって思ってた時、ミキちゃんがぽつりとつぶやきました。
「…娘ちゃん。あいつのこと、でしょ…?」
「あ、んっと… うん。ミコちゃんのこと、なんだけどね…」
ごめんね。わたしから切り出さなきゃいけないことなのに。いつもミキちゃんに頼ってばっかりで、わたしはまだまだ子どもなんだなぁって思ったら恥ずかしくなっちゃいました。あうあう…
「…ねぇ、ミキちゃん。ミクちゃんからミコちゃんのことを聞いて思ったんだけどね…」
はじめにそう伝えてから、ずっと考えてたことをミキちゃんに伝えました。
「…自分が幸せになっちゃいけないから、ミキちゃんと別れるってことは… ミコちゃんはやっぱり、ミキちゃんと一緒にいるのは幸せだって、ちゃんと分かってるんだよね」
「…そういうことみたいね。だからあたしも辛いのさな…」
「うん… そうだよね。ごめんね…」
やっぱりミキちゃんもちゃんと分かってました。それなら、二人ともラブラブだってことは間違ってないみたい。
だから、ミキちゃんも諦めきれないから辛いんだよね。
「…あたし、さ… ホントにあいつのこと好きなんだなぁって。いつもそばにいるから安心しきって、見えなくなってたけど… あたし、あいつがいないと張り合いがないっていうか… なんだかあたしらしく居られないのさな。困ったもんだねぇ…」
ミキちゃんはそう言うと、はぁ、とため息をつきました。やっぱり、ミキちゃんかわいそうだよぉ。おんなじ【ミスリルを冠する者】として一緒にこれからも行動していくのに、ミコちゃんのことを諦められないミキちゃんは、ずっと辛い思いを抱えながら過ごしていかなきゃいけない。それはなんて残酷なことなんだろう。
そう思ったらわたしの方が泣きそうになっちゃって、必死にこらえました。今はミキちゃんの気持ちをちゃんと聞かないと… 泣くのはそれからだよぉ。
「…ミキちゃんはどうしたいの? このまま、ミコちゃんとさよならしちゃってもいいの?」
「…できるなら今すぐにでもあいつのところに飛んでいきたいわよ。でも、ミクちゃんと話してたらあいつの思いも無下にできないなって思っちゃってさ… なんていうか、こちらからは手出しできないって感じなのさな」
ミキちゃんの話し方は、なんとなく諦めちゃってるように聞こえました。
ふたりはお似合いなのに、ダメなの? ねぇ、ミキちゃん…
きっとわたしは悲しくて暗い顔をしていたんだろうなぁ。わたしがミキちゃんを見つめていたら、ミキちゃんは少し困ったような顔をしながら、それでも強い声で言いました。
「でもね、あたしはあいつのこと諦めない。どんなに時間がかかっても、あいつの過去の清算が済むまで待ってやろうって思ってる。あたしは待つことしかできないけど、あいつの気が済むようにしたらいいのよ…」
それはミキちゃんの強い決意でした。
どれだけ待つか分からない。だって、ダークエルフのミコちゃんはミキちゃんよりきっと寿命が長いから、数百年かかるかもしれない。ううん。もしかしたらそもそも解決しない問題かもしれないのに。それでもミコちゃんのことを想って待ち続けるなんて──。
恋する女の子はなんて強いんだろう。わたしもいつか、こんなふうになれるのかな?
そう感心してたら、ミキちゃんがまたひとつ大きなため息をつきました。うんうん。強くても、辛いのは辛いよね…。
「…ため息つくと、幸せが逃げちゃうんだって。お父さんが言ってたよぉ?」
「…もう、あたしには逃げていく幸せもないわよ…」
あうあう… ミキちゃん、そんなこと言わないでよぉ。
ミキちゃんのさびしそうなほほえみが、なんだかとっても痛々しいよぉ。いつも強気なミキちゃんだけど、今のミキちゃんはなんだか違う人みたいに弱々しくて、今にも崩れちゃいそう。
できることならぎゅって抱きしめてあげたい。そう思ったけど、どうしてかなぁ。それはしちゃいけないような感じがして、わたしは動くことができませんでした。
「…ミキちゃんもミコちゃんのことが大好きなんだね。だから無理矢理にはしたくないんだよね?」
「そういうこと。まったく、なんであんなヤツを好きになっちまったのかね…」
わたしはその時、ミコちゃんとお話しなきゃいけないって思いました。ちゃんとミコちゃんの思いも聞かないと、先に進めなくてずっとこのままになっちゃうって感じたから。
「ねぇ、ミキちゃん。わたしからミコちゃんにお話してもいい?」
「いいけど… 大人の世界にあんまり口出ししちゃダメよ?w」
「はうあう… そんなんじゃないけどぉ…」
「冗談よ。娘ちゃんを子ども扱いしてるわけじゃないからね?」
「うんうん。ありがとぉ。 さっきのはミクちゃんが言ってたことだからたぶん正しいと思うけど、わたしはやっぱり直接ミコちゃんの思いを聞きたいなぁ…」
「そういうことね。まぁ、言ってみれば血盟員同士のいざこざだし、血盟主の娘ちゃんが間に入るのはおかしいことじゃないか… あたしはあいつに顔を合わせられないけど、ひとりで大丈夫かい? 誰かについていてもらった方がいいんじゃないかい?」
「ううん。これはミコちゃんとふたりっきりじゃないとダメだと思う。ほら、ミコちゃんはミキちゃんとおんなじで素直じゃないから、ちゃんとお話を聞いて、ちゃんとお話をしたいの」
「ちょっ、あんな素直じゃないヤツとあたしを一緒にしないでくれる? まったく… 思ってることを面と向かって言えないなんて、あいつの方がよっぽどツンデレじゃないの! ったく、素直じゃないヤツ!」
「あ、あうあう、ごめんね、ごめんね…」
わたしはこうして、ひいおじいちゃんが言っていた「自分が正しいと信じる道を堂々と進むこと」を、さっそくやってみることにしました。
§
その日の夜。グルーディン村の宿屋さんでわたしとミキちゃんはお泊まりすることにしました。宿屋さんって言っても、村にはそういうお店がないから…神殿の中の小さなベッドに、ミキちゃんと一緒に横になっています。
ミキちゃんがアインハザード教会の神官さんにお話したら、一晩泊めてもらえることになりました。すごいなぁ。やっぱりビショップさんってアインハザード教会の中でも信頼されているんだって、よく分かりました。
お父さんはプロフィットだから、きっとお願いしてもこんな風に泊めてもらえないんだろうなぁ。スーラさんのところで野宿することになっちゃいそう。でも、そんなお父さんもかっこいいかも…なんて思っちゃったり。
ミキちゃんはこのごろ眠れていなかったみたいで、横になるとすぐに寝ちゃいました。わたしも結構歩いたから疲れていたんですけど、こうやって誰かと一緒のベッドに寝たことがあんまりないから緊張しちゃって眠れませんでした。
小さいベッドだからミキちゃんとぴったりくっついていて、あんまり動くと起こしちゃいそう。そっとミキちゃんのお顔を見上げてみると、とってもやさしいお顔でおやすみしてます。
なんだか安心するなぁ。ミキちゃんあったかいし、それにお父さんとは違う甘い匂いがして、とっても落ち着くなぁ。
そういえば、お父さんはよく添い寝してくれるんですけど、こうやって女の人と一緒に寝るのってはじめてかも。
そっかぁ。だから落ち着くけど慣れないって思っちゃうんだね。
──お母さん──
きっと、お母さんってこんな感じなんだろうなぁ。
そんな風に思いながら、ミキちゃんのあったかい体を感じていました。手はまわされていないけど、だっこされているみたいで安心しちゃう。
わたしはまたミキちゃんのやさしいお顔を見たくて、もう一度お顔を見上げてみました。そうしたら、今度は月の光で照らされた青白いお顔があって──
なんだか泣いているように見えました。
やっぱり、すぐには立ち直れないよね。ミコちゃんと一緒に、笑顔でいられるようになるまでは辛いよね。
ミコちゃんかぁ…ミキちゃんがこんなに辛いのは、ミコちゃんを好きになっちゃったからなんだよね。
わたしは今日のミキちゃんとのお話と、ミコちゃんのことを思い浮かべました。そして、もう一度じっくり考えてみることにしました。
いろいろ考えたら、やっぱりミコちゃんの考え方はよくないような気がする。まだどんな風によくないのかはもやもやして分からないけど、もっと違うやり方があるはず。
きっとミコちゃんとお話しているうちにそれも見えてくるんじゃないかなぁ。
ミコちゃんのお話を聞いて、もし間違っているって思ったら、ちゃんとわたしが正してあげなきゃ。
わたしは子どもだし、小さいし、ミコちゃんよりいろんなことの経験が少ないけど…
わたしは「責任者」として、どんなことをしても間違っていることは正してあげなきゃいけない──。
わたしはあの時立てた誓いを思い出す為に、自分の小さな胸にそっと左手をあてました。
それは【ミスリルを冠する者】のみんなとの誓い。
ミカちゃん。ミキちゃん。ミクちゃん。ミケちゃん。そして、ミコちゃん。
みんなに今の名前を付けた時に立てた、わたしだけの誓い。それはみんなに新しい名前を付けたことへの責任だから──。
目の前のミキちゃんがまた心から笑えるようになりますように。
そう祈りながら、わたしは目を閉じました。
§
どうやらここ数日、ミキと小娘がグルーディン方面へと出かけていたらしい。あの辺境の村まで爺さんの顔を拝みに行ってきたというのだから恐れ入る。さぞかしありがたい御利益があるんだろうな。
二人がアデン城の村に戻ってきてから三日後に、俺は小娘に呼び出され直接そのことを聞いた。
場所はアデン城の花畑。小娘の好きそうな小綺麗な花が咲き乱れるそこは手入れが行き届いており、ガーデニングというよりは何かの芸術であると主張しているかのようだ。俺には整然としすぎて面白味が感じられないが、思った通り小娘はこういう景色が好みらしく、その屈託のない笑みを振りまいていた。
日は既に西へと傾き始めており、実際には白いであろう花壇の花が夕日を浴びて黄金色に輝いている。
花畑に吹く一陣の風が、俺と小娘の服をバサバサとはためかせて通り過ぎていった。真冬と比べれば日は長くなったが、この時期の夕暮れ時に吹く風はまだまだ冷たい。ローブならば身を切るような寒さを感じることだろう。
小娘はグルーディン村で爺さんに会った事を楽しそうに話していたが、いつしか同行したミキの話題へと移り──そして案の定、俺はミキとのことを聞かれた。
「ミキちゃんのこと、嫌いになっちゃったの?」
小娘はミスリル・リンクの盟主だが、まだまだ年端も行かない幼い子どもだ。そんな小娘が俺とミキの話に介入するのは無理であり、いくら忠誠を誓っているとはいえプライベートのことに口出しされるのは御免だった。
俺は適当な事を言ってはぐらかしてしまおうと思い、小娘の瞳を見つめ返した。すると、小娘は驚くほど真剣なまなざしをしており、それは今までに見たことのないような厳しい顔つきだった。
いや、俺はこういう顔になった小娘を見たことがある。
そうだ。俺が【ミスリルを冠する者】となったあの時も、こいつは同じ顔つきをしていたのだ。そしてあの時俺は──。
あの時のことを思い出した俺は、やはり小娘相手に誤魔化すことはできないと諦め、その射るような視線から逃げるように顔を背けた。
この顔つきになった小娘は手強い。まるで瞳から入り込んで俺の内面の全てを見透かすようなまっすぐで意志の強い眼力は、飄々とした父親のそれを遙かに超えているように感じられた。
ひょっとすると、噂の母親以上かもしれんな──。
まだ誰も会ったことのない小娘の母親を引き合いに出したくなる程に、こうなった時の小娘は頑として譲らない。
こうして俺はため息をつきながら、ありのままを話すことに決めた。俺が傍にいたらミキを不幸にしてしまうことを理解してもらう為に──。
「…そっか。やっぱりミクちゃんが感じていた通りだったんだね」
俺が一通り思いを伝え終わると、小娘の口から予想外の名が出てきた。
ミク──ミスリルの空騎士か。どうやら今回の件はあいつも一枚噛んでいるようだ。
「…ミクか。あいつ、目が見えないのに何故そんな事情が分かるんだ?」
「肌で感じることのほうが、正しいことってあるもん」
「……」
確かにそれは正しい。俺も視界の制限される闇夜の方が神経が鋭くなるのでよく分かる。シャドーセンスという特性だが、余計な視覚情報を排除することで感覚を鋭敏化し、気配を頼りに対象を正確に捉えることができるようになる。
ミクは光を喪ってからかなり長い時間が経つと聞く。それならば、俺などには想像もつかないような感覚──第六感のようなもの──を持っていてもおかしくはない。
「ミコちゃん。それで、ミキちゃんのことなんだけどね」
「…あいつがどうかしたか」
「ミキちゃんね、今とっても辛いみたい。生きる為の力をなくしちゃったみたいで…見ていられないんだよぉ…」
「……」
小娘に言われなくとも分かっている。俺だって辛い。だが先ほど伝えたように、この先に待ち受けているであろう結末をあいつにだけは見せたくないのだ。これは愚かな俺が自ら蒔いた種であり、出た芽を刈り取るのは俺の役目だ。だからあいつとは距離を置かねばならないのだ。
俺がそう考えている間に、小娘はどこからか細長い枝を拾ってきて俺に手渡した。
「…ミコちゃん。辛いっていう漢字、書いてみて」
「…アベラ地方の文字か。漢字の勉強なら自分でやらんと身に付かんぞ」
そう嘯いてみたが、小娘は無言で俺のことを見つめている。まったく、いつからこんなに肝が据わるようになったんだ?この小娘は…
俺はその無言の圧力に耐えかねて、言われるまま地面に「辛」という字を書いてやった。
「…それが今のミキちゃんの気持ち。辛くて悲しくて、泣いてるの。でもね、あと一本増やしたら幸せになれるんだよ?」
そう言いながら、小娘は横棒を付け加えて「幸」という字に書き換えた。
そんなものは単なる言葉遊びだ。そう一笑に付そうとしたが、俺は何故かそれを口に出すことができなかった。
「…ミキちゃんの最後の一本は、わたしには増やしてあげられないの。お父さんにも、ひいおじいちゃにも無理。それができるのは、ミコちゃんだけ」
「だが、俺は…」
「ねぇミコちゃん。昔の事件のことで、今のミキちゃんが苦しむのはおかしいよぉ」
「…それとこれとは直接関係ない」
「あるよぉっ!!」
小娘が叫んだ瞬間、まるで水を打ったかのように周囲が静まり返った。元々静かな場所だったが、その場から一切の音が消え失せたように感じられた。
日はもうすぐ完全に沈む。空は橙から群青へのグラデーションで覆われており、吹きすさぶ寒風の為に肌寒さは先ほどより強くなってきていた。だが、俺は身動ぎひとつできず小娘の気迫に飲まれていた。
「…ミコちゃんは、どうするの? ミキちゃんのこと」
「…どうにもできん。俺はあいつを不幸にしたくない…」
「…ミキちゃんはね、ミコちゃんに捨てられてとっても傷ついているんだよ? もう不幸になっちゃってるんだよ!? そのくらいミコちゃんにも分かるでしょお? ねぇ、ミコちゃんってば!!」
俺があいつを不幸にした──。
そう直接断言しないのは小娘なりの気遣いなのだろうが、それが逆に俺の胸に突き刺さった。
小娘はまるで駄々をこねる幼子のように俺の袖を何度も引いた。それはまるで、欲しいお菓子をねだるときの幼子そのものだったが、その顔つきだけは妙に大人びて見えた。
「…何を言われようと、俺の気持ちは変わらん。きっと近い将来、かつての親友により俺に対する報復が行われるだろう。その時にあいつが傍にいたら… 俺はあいつのことを巻き込みたくないんだ!」
俺がそう言い放つと、小娘は掴んでいた俺の袖をゆっくり離した。
そして力無く俯き、俺からはその表情が見えなくなった。
ああ… 俺はミキだけでなく小娘まで泣かせてしまうのか。
やはり俺は不幸をまき散らす存在なのだ。そもそも俺は人殺しという咎人なのだから──。
小娘は俯いたまま両の拳を握り締め、震えている。今にも泣き出しそうなその様子に、さすがに俺も見ていられなくなり目を背けようとした。
──その時だった。
「…いくじなしっ…」
俯いたままの小娘が発したその声はとても小さかった。しかし、それでもはっきりと花畑に響いた。
一瞬、言われたことが理解できず間が空く。幾度か反芻してようやく理解できた俺は、うまく回らない舌を無理矢理動かし、こう返すのが精一杯だった。
「な…んだと…?」
「あなたはいくじなしだって言ったの!! それでも男の子なのっ!?」
そう言って俺の方を向いた小娘は──怒っていた。
鬼の形相、という風でもない。感情に流されているという様子でもない。形容し難いが、確かに目の前の小娘は怒っていた。
何かが覚醒したかのような小娘の豹変ぶりに気圧された俺は、呼び方が変わっていることに気づく余裕もなかった。ただただ、目の前の小さな娘から発せられる謎の気迫に耐えていることしかできなかった。
「そんなにいい加減な気持ちでミキちゃんと一緒にいたの!? どうでもいい気持ちだったの!? ミキちゃんのこと、遊びだったの!? ねぇ、答えてよっ!!」
俺は何故一言も言い返せないんだ…?
何故こんなにも圧倒されているんだ…?
相手はただの小娘だ。それなのに、何故か一方的に俺が悪いと思わされてしまうこいつの雰囲気は一体何なのだ?
「…違う。俺はあいつのことが本当に愛しいんだ。俺はあのクリスマスの時に誓った。あいつの為なら何でもしてやると。この命を差し出してでも、あいつに幸せになって欲しいと願ったんだ!だから俺は身を切られる思いであいつから離れた。これが最善の方法なんだ!」
「違う!! 違うよっ!! そんなのやり方が間違ってるよ!!」
「ならば、俺はどうすればいいというのだ!」
もう俺は冷静ではいられなかった。子ども相手に大人げないと思う余裕すら失い、声を荒げた。もうただの口喧嘩になってしまってもいい。どのような形でもいい。今のこの状況から早く逃げてしまいたかった。
そうだ──。相手はまだ子どもなんだ。このまま小娘が感情に流されれば「喧嘩別れ」という形でこの場を終わらせることができるではないか──。
そして俺は、挑発するように口元に笑みを浮かべ、挑むように目の前の小娘を睨みつけた。
だが──
小娘の顔を正面に捉えた瞬間、俺は後悔した。こいつのことを正面から見据えなければよかったと。
そんな顔で見つめられたら、俺は…俺は何もできなくなってしまう。
そんな…
母親のような顔で見つめられたら──。
「…ミキちゃんの為に何でもできるんだよね? それなら、
[ミキちゃんと一緒にいても大丈夫なように]
すればいいの。どうしてそう考えられないの?」
「そ、それは…」
「…どうして一緒に乗り越えようとしないの? どうして自分一人ですべてを抱え込んじゃうの? そんなの、みんなが不幸になるだけ。ミキちゃんが悲しんでいるのは当然だけど、二人が辛そうにしているのを見ている周りのみんなも辛いんだよ? 大切な人が困っているのに助けてあげることもできないなんて…それがどれだけ辛くて悲しいことか、分かってよぉ…」
「大切な、人…?
バカな…俺は過去に人を殺した人間なんだぞ!? こんな俺のことを、こんな咎人のことを大切だと思っているヤツなど一人も」
パンッ
急に小娘の顔が見えなくなった。
目に入ったのは俺の右側に落ちたピエロの帽子と、完全に暗くなった花壇の中で月の光に照らされて青白く映る花だった。
そして次に認識できたのは、左頬の疼くような痛みだった──。
§
娘は両目に涙を溜めながら必死に背伸びをし、光刃さんの左頬を力一杯叩きました。その結果残ったのは、光刃さんの左頬の痛みと、娘の右手の痛み。そして、深く刻み込まれた娘の心の傷でした。
娘は光刃さんを見据えると、まるで聞き分けのない我が子を叱る母親のように、凛として言いました。
「…そこに座りなさい。光刃」
「……」
抗う気力を失ったのか、はたまた叩かれたことで冷静さを取り戻したのでしょうか。光刃さんは無言でその場にゆっくりと座りました。
娘は天を仰ぎ見ると、まるで空の向こう側にいる存在とコンタクトを取るかのように微笑みました。そして顔を背けている光刃さんを見つめながら、ちょうど自分の胸の高さにある彼の頭をやさしく抱き締めました。
「…かわいそうな子。自分がどれだけみんなに愛されているか分からないなんて…」
「お… 俺は…」
しばらく娘は何も言わず、冷えきってしまった光刃さんの顔を暖めるかのようにやさしく包み込んでいました。
光刃さんも何も言わず、娘のされるがままになっていました。しかし、娘が歌うように紡ぎだした言葉にはっとして、彼の鋭敏な耳が動くのが分かりました。
「暗闇を知る者にしか、道は明るく照らせない」
「え…?」
「暗闇に居る者にしか、光の有難さが解らない」
「小娘、何を…」
密着している為、その声は娘の薄い胸板越しに直接聞こえてきます。いつも聞く声とは異なり、その時の光刃さんには落ち着いた女性の声のように聞こえたのでした。
「…あなたはあの時、この世界に留まってくれた。でもあなたは弱い子だから、また闇の世界に還ろうとするだろうと思っていました」
(あの時の…成人式の祭壇での事か… あの短時間で、そこまで俺のことを見抜いていたというのか…?)
「…あなたの名は【お守り】です。闇を知るあなた自身が光を放つ刃となって闇を切り裂き、みなを明るく照らし導ける者であるように。そう願いを籠めた、わたしからあなたへのお守りです」
光刃さんは驚きで目を見開いています。そして、目だけを上にあげ、娘のことを見ようとしています。
娘は光刃さんを離すことなく、抱き締めたまま彼の名前を呼びました。
「──光刃──」
心底愛おしそうに彼の名を呼ぶ娘は、まるで母親のそれであるかのような慈悲深い微笑みを浮かべています。
「そ…そん…な… 俺の名に、そんな意味が…」
「この名をあなたに与えた時から、わたしはあなたのお母さんになりました」
「…こんな…小さな母をもった覚えはないがな…」
「もちろん、あなたの本当のお母さんにはなれません。でも、名前を与えられるのは親だけ。そして、名前をつけたあの時、わたしはあなたのすべてに責任を持つことを誓いました」
「責任…」
「命を投げ打って闇に還ろうとしたあなたを、わたしが止めました。だから、わたしには生まれ変わったあなたを正しく導く責任があります」
娘は光刃さんを包む力を弱め、彼の瞳をじっと見つめました。母性と、強い意志を同時に感じさせる娘の表情に戸惑いながらも、光刃さんはもう目を逸らしませんでした。
「簡単な気持ちで名前を付けた訳じゃないの。あなたたち五人に名前を与えた時は、いつも同じように覚悟をしていました。みんな放っておけないと思った子ばかり。だから、あなたたちが間違ったことをしたらわたしがお母さんとして正してあげると誓ったの」
「小…娘… お前…」
「名前の由来、もっと早くに話すべきでした。わたしが言い出せなかったせいで、あなたとミキちゃんを追い詰めてしまって… 本当にごめんなさい…」
「…お… 俺は… そんなことも知らず…に…」
光刃さんは泣きそうになりながらも、涙を娘に見せないように必死に堪えていました。
娘はそんな光刃さんを再び包み込み、告げました。
「…いいよ、泣いても。お母さんが受け止めてあげるから…。ね? 光刃」
「こ…む… か…かあさ…ん…」
もう堪えることはできませんでした。光刃さんは久しぶりに──前にそうしたのがいつなのか、思い出せないくらい久しぶりに、声を挙げて泣きました。本当に小さな男の子になったかのように。
「かわいそうに…。今まで誰にも甘えられなかったんだね…」
「うっ うぅ… 母さん、俺…俺、あいつにひどいことしたんだ…」
「うんうん…」
「親友だったあいつにも、ミキにも… 俺、ゆるしてもらえるのかな…」
「ちゃんと謝ろ? ミキちゃんなら分かってくれる。いつも一緒にいたミキちゃんなら、きっと」
「でも… こわい…よ。ゆるしてもらえなかったら、俺…」
光刃さんは怯えていました。小さく震える彼を感じながら、娘は目を閉じて──。
そしてとてもゆっくりと、噛み含むように言ったのでした。
「…逃げていたら謝れないでしょ? だからいつまで経っても、誰からも、何も赦してもらえないんだよ…?」
光刃さんは憑き物が取れたかのようにうなだれ、深く反省しました。
今まで逃げ続けてきた自分。そんな自分が嫌だったのに、また逃げてしまった自分が心底情けなくなったのでした。
「うん…うん… お…俺、また同じことをしそうになってた… 親友から逃げて、罪の重さからも逃げて… そして今度はミキからも逃げようとしたんだ。もう逃げちゃいけないのに… こんな自分はもうイヤだと思ってたのに… 俺はなんてバカなんだ…!」
「…それに気づいて反省できたんだから、あなたはいい子。本当は誰よりもやさしくて、誰よりも弱くて折れそうな心を持っているのに…」
自分に絶望し、打ちひしがれている光刃さんにとって、娘の言葉は一条の光のように感じられました。
「よくがんばったね。もうひとりで無理しなくていいんだよ? 光刃…」
「母さんっ…! うわああああああ…」
§
どのくらいそうしていたでしょうか。二人は夜空に浮かぶ月だけが見つめる中、身を寄せあっていました。
しばらくすると、光刃さんの嗚咽が小さくなりました。誰かに甘えることができなかった光刃さん。誰かにこうしてもらわなければ、いつか壊れてしまっていたかもしれません。
本当はこういうの、わたしじゃなくてミキちゃんのほうがよかったんだろうけどなぁ──。
娘は少しだけそう思いながらも、自らの胸の中で落ち着きを取り戻した光刃さんの顔を見つめました。
「…落ち着いた?」
「…うん…」
「よかった…。じゃあ、はい。元通りっ!」
娘は光刃さんの目の前で手をパンパンと叩きました。光刃さんはまるで暗示が解けたかのように立ち上がり、袖で顔を拭いました。
恥ずかしさが戻ってきたのでしょうか。光刃さんの顔は真っ赤になっています。
「ミコちゃん、だいじょうぶ?」
「あ… ああ。おかげですっきりしたよ。その、何だ… あ、ありがとうな」
甘えんぼうのミコちゃんもかわいいけど、やっぱりクールでかっこいいミコちゃんもいいなぁ。
娘はそう思いながら、くすりと笑いました。もう先ほどのような母親然とした顔ではなく、ひとりの女の子の顔つきに戻っていました。
「じゃあ、おさらいするね。ミコちゃんはもう逃げちゃダメ。ひとりじゃないから、大丈夫だよね? ちゃんとミキちゃんと協力して、ふたりで乗り越えていくこと。わかった?」
「…そうさせてもらうよ。その為にも、まずはミキに謝らないとな」
「ふふっ やっぱりミコちゃんは素直でかわいいなぁ。わたしうれしいよぉ」
「は、恥ずかしいことを言うな… 男はかわいいと言われても嬉しくない生き物なんだ」
「うんうん」
それ以上、言葉は必要ありませんでした。
二人はしばし見つめあうと、互いに頷いて笑みを浮かべました。
娘は光刃さんに大きく手を振ると、後ろを振り返りその場から歩き出しました。闇夜の中、月明かりだけを頼りに歩を進める娘の背中に、光刃さんは深々と頭を下げるのでした。
数歩歩いたところで、娘は何かを思い出したかのように立ち止まりました。そのまま振り返ることなく、虚空を見つめたまま独り言のように呟きました。
「…もし昔のお友達がミコちゃんのところにきたら、ちゃんと謝らないとなぁ。うちのミコちゃんがご迷惑をおかけしましたって。ミコちゃん、ちゃんと謝れるかなぁ。あの時は逃げてごめんなさいって。わたし心配だなぁ…」
「……もう遅いかもしれないが、次に会う時はしっかり謝るよ。あの時は逃げてしまったが、俺はもう逃げない。真正面から謝るよ」
娘は光刃さんの言葉が聞こえていないかのように呟き続けます。
「…ちゃんとお話し合いで解決できるかなぁ。その時はきっとミキちゃんも隣にいるんだから、決闘とかしないで済むといいなぁ…」
「…俺は、俺が昔の親友に殺されるところをミキに見せたくなくて逃げたんだ。一人の時に報復を受けて俺が殺されれば、それで済むだろうと思っていた。だが、それは間違いだったんだ」
光刃さんは娘の小さな背中に向けて、決意を伝えました。
「小娘…いや、我が盟主はかつて俺に言った。もう人に刃を向けてはならぬと。それだけではない。盟主の父と母がその身を持って俺たちに教えてくれていた。悲劇の連鎖を繰り返してはならぬと。俺はようやく、その真の意味に気付けたんだ。例え直接目撃しなくても、俺が殺されたと聞けばミキは黙っていないだろう。ミキだけではない。ミクや盟主のように、俺のことを気にかけて心配してくれている者すべてを悲しませてしまうことになる。具体的にそれによって争いに発展しなかったとしても、俺が昔の親友に殺されたという事実は消えず、その事によって俺の大切な仲間の心に深い傷を負わせることになるだろう」
娘は立ち止まったまま、光刃さんの言葉を静かに聞いています。
「血で血を洗う戦いに救いはなく、話し合いで解決することのみが救われる道だ。俺は盟主のおかげでようやくそれに気づくことができた。だから俺は、もう誰も悲しませない為に話し合いで解決させてみせる。それは戦うことより遙かに難しいが、俺はもう何からも逃げないと決めたのだ。俺は一人ではない。俺にはミキがいて、頼れる仲間がいる。そして俺には、心底忠誠を誓える自慢の盟主がいる。俺の大切な人を悲しませない為に、俺のできる最善を尽くすこと。これが俺の成すべき事だ」
それは、光刃さんが導き出した「解」でした。決して一人では辿り着けなかったであろうそれは、平凡ながらとても輝いていました。まるで、この闇夜を照らす光のように──。
娘は光刃さんの言葉に満足したのか、夜空の月を見上げて大きく深呼吸すると、まるでスキップでもするかのように軽い足取りで花畑を後にしました。
残された光刃さんは娘の歩いていった方に向かって再び最敬礼し、月を見上げました。
きっとミキさんも見上げているであろう、その夜空の月はとても綺麗で──
光刃さんはどうやってミキさんに謝ろうかと、少しだけ現実的なことを考え始めたのでした。
後日、光刃さんとミキさんは仲直りし、晴れて「ミスリル公認カップル」へと昇華するのですが…
それはまた今度お話しすることに致しましょう──。
DOSANの妻、という人。番外編
決意を、あなたに。 - after tail - 完