「はぁ…」
これで何度目のため息だろう。
温泉からあがって脱衣所で涼んでいるあたしは、あの大浴場での出来事を思い出してはため息をついていた。
すぐ横で、下着姿の娘ちゃんとしふぉんちゃんがお互いの髪を結い合っている。二人とも純白の下着だけど、シンプルなデザインの娘ちゃんとは違ってしふぉんちゃんのはフリルが付いていてより可愛らしさを際立たせている。
二人とももう髪は乾いたのかねぇ?
少ししっとりしているように見える髪がちょっと心配だけど、とても楽しそうな二人に水を差すわけにもいかずに黙っていた。
「しふぉんちゃんもおんなじ髪型だね」
「うんうん。娘ちゃんと同じ髪留めだね~」
小豆色の髪と橙色の髪があたしの目の前で小刻みに揺れている。まるで小動物のようにちょこまか動く小さな二人を眺めていると、少しだけ心が癒されるような気がしてくる。
──あいつが何かと娘ちゃんのことを引き合いに出すのも、ちょっと分かるかもね──
そんなことを思いながら、あたしはまたひとつため息をついた。
ため息の原因は分かっている。
あの時、あいつが言った一言が今も胸の奥に突き刺さってくすぶっているからだ。
【俺はお前の裸など見たくもないし、興味もない】
ええ、ええ。そうでしょうとも。
ダークエルフの女性に比べたら、あたしなんて貧相な体だってことくらい分かってるわよ。
それに、あんたが好きな娘ちゃんみたいに小さくてかわいい、すらっとした体型でもないわよ。中途半端な体型で悪かったわよ…。
「はあ…ぁ…」
考えているだけで涙がこみ上げてきたあたしは、それをごまかすように大きく息を吸い、震える声帯を無理に動かしてゆっくりとため息をついた。
DOSANの妻、という人。番外編
温泉旅行の、その夜に。
§
「ふぇ? あれ、ミコちゃんはぁ?」
「…先ほどのダメージが大きかったようです。マタタビの間では人の出入りがある為安静にできないと判断しましたので、別室にて休んでもらっています。応急のメジャーヒールはしておきましたが、回復には今しばらく時間がかかるかと…」
「俺も見てたけど、白目むいてたし相当のダメージだと思うな。ミコちゃんCONを下げてて打たれ弱いからさ。なまじ回避が高いと当たったときが痛いんだよね」
宴会場での夕食時。あいつ以外はみんな揃っていた。
娘ちゃんとミケちゃん。それと後頭部をさすっているグレンさんがあいつの話をしているようだけど、あたしはその会話に加わる気分にはなれなかった。
ふとそちらに目を向けると、悲しそうな顔をした娘ちゃんと目が合った。
娘ちゃんの視線は時折とても重たく感じる。きっと意志の強さによってその重さも変わってくるんだろうけど、今もその大きな瞳から発せられる思いがあたしの心にまで否応なしに届いてくる。
──ミコちゃんのこと、あとで診てあげてね──
娘ちゃんは言外にそう言っていた。
あたしもミスリルのヒーラーとして、後で様子を見に行かなきゃいけないかな、とは思っていたけどさ…
でも、どんな顔して会いに行けばいいのよ。
あいつを気絶させたのは、このあたしなのよ?
あいつに女風呂を覗くような趣味がないことくらい分かっている。ウザイカだか何だか知らないけど、ミカちゃんやグレンさんの言うことは本当なんだろう。
それは分かっている。あいつに悪気はなかったことくらい、あたしにだって──
でも…
あんな言い方しなくてもいいじゃないさ。
【俺はお前の裸など──】
あれがあいつの本心なんだろうか。
とっさに出てしまっただけで、本心じゃない…と信じたい。
でも…それにしてははっきりと言い切ったわよね…
あいつの考えてることが分からない。あいつ単純だから、今までこんなことなかったのに…
どうしよう。あたしはどうしたらいいんだろうね?
「…あぁもう! こんなの考えてたって分かるわけないじゃないさ!!」
その刹那。
みんなの目線があたしに向けられる。
あらかた食事を終えてお酒も入り始めているみんなは、娘ちゃんの歌を聴き終わってほんわかとした雰囲気に包まれていたところだった。
そう。いつの間にか始まっていた「第一回ミスリル・リンクカラオケ大会」のトップバッターとして、盟主の娘ちゃんが頬をピンクに染めながら歌っていたようだ。
次はミカちゃんの演歌が始まろうとしていたところに──。
あたしが叫んでしまったのだ。
どう見てもKYです。本当にありがとうございました。
「…ええと、ミキちゃん大丈夫ですか?」
「あ… ちょっ ちょっとミケちゃん、来て。一緒に」
「え… ぼ、僕ですか?」
「そ、そう。ちょっとお願いっ!」
歌い出しをくじかれて涙目のミカちゃんと、そのミカちゃんをなでなでしている娘ちゃんが見えた気がするけど…
みんなの注目を浴びて真っ赤になっていたあたしには気に留める余裕はなかった。ごめんねぇ、ミカちゃん。あんなに練習してた歌だったのに…。
あたしはみんなからの好奇の視線を浴びながら、ミケちゃんの右腕を引っ掴んで逃げるように宴会場を後にした。
§
ロビーまで全速力で走ってくると、ソファーに座って呼吸を落ち着かせる。
走ったからか、ミケちゃんも少し呼吸が荒い。乱れた浴衣と、その隙間から見える少し汗ばんだ胸元。そして右手でそっと髪をかきあげるミケちゃんの仕草が妙に艶っぽく見えて、あたしの心臓が早鐘を打ち始める。
ミケちゃんは光刃と同じくらい長身だけど、男っぽいあいつとは違って中性的な魅力に溢れている。肌なんてあたしより肌理が細かいんじゃないかって思うくらいで、ときどき羨ましくなる。本当、芸術作品みたいに美しいわよね──
…あたしは何を考えているんだろう。あたしにはあいつがいるじゃないの。
そうよ。確かにミケちゃんは魅力的だけど、浮気なんてダメよ。あたしにはやっぱりあいつしかいないんだから。
──あのクリスマスイブの時に、そう決めたんだから──
「ふぅ… ミキちゃん、いきなりどうされましたか?」
「あーいや、ごめんねぇ。急に引っ張り出したりしてさw」
「いえいえ。先ほどから料理にも手を付けていなかったようですので、僕も心配していたのですよ」
そう言うと、ミケちゃんはやさしく微笑んだ。
ああ…これが会話の最後に(微笑)って付く感じなのね…
そんな客観的なことを考えながら、あたしはミケちゃんに話し始めた。
「…あいつの応急処置してくれたんですってね。ありがとねぇ… っていうか、あたしのせいで迷惑かけて、ごめんなさい」
「ミキちゃん、それは言わない約束ですよ。僕たちはその場でできる最善を尽くすことを娘さんに誓ったではありませんか。ネルさんたちも出ていってしまったあの場には、ヒーラーは僕しかいませんでしたから」
ミケちゃんはそう言うと、浴衣の裾からルーンストーンを取り出した。
「いやぁ、あの時もタオルに巻いてルーンストーンを持っていてよかったですよ。重さも0になりましたし、どこにでも持ち歩く癖がついてしまって… ほら、こうして軽石のようにも使えますしね。お肌もツルツルになりますよ」
「軽石かいっw まぁ、確かに軽くなったけどさw …でも、メジャーヒールじゃなくってもバトルヒール連発でもよかったんじゃないの?w」
「おっと、それもそうでしたね。あとはサルベーションなら一発で…」
「いあいあ、あいつ死んでないからw それにサルベーションはあたしのスキルだからw」
そんな軽口を叩きながら、二人して笑いあう。
冗談めかした会話が、今はとてもありがたかった。
入浴後、ちょっとナーバスになっていたあたしは今はじめて笑うことができている。本当、ミケちゃんのおかげね。
あたしがこう思うのも、きっとミケちゃんの想定範囲内なんだろうねぇ。相手の心を読んで望みを先取りするようなその会話運びは、「賢者」の異名も伊達じゃないと納得させられる。
「…それでさ、あいつ今どこで休んでるの?」
「ミコちゃんならマタタビの間とは別の階にある個室に寝ていますよ。確か…鈴音の間でしたかね」
「そう… ちょっと様子を見に行ってくるわ。色々ありがとねぇ」
「どういたしまして。では、頑張ってきてくださいね!」
ミケちゃんはそう言うと、少し赤い顔をして頭をかいた。
ん…?
何かちょっと引っかかるけど、あたしも挨拶をしてミケちゃんと別れた。
フロントで鈴音の間の場所を聞かないとねぇ。
そう思って歩き始めたけど、ちょっと思いついたことがあって厨房の方へと足を向けた。
§
厨房は先ほどの宴会場からそれほど離れていない場所にあった。
ネコだらけの厨房に入った時、にぎやかなみんなの声に混ざってグレンさんの気合の入った声が聞こえてきた。
「俺を誰だと思ってやがる!」
グレンさんでしょ。
「てめえら全員湯あたりしやがれ!!」
もうみんなお湯から上がってるわよ。
って、誰もいないのに思わずツッコミ入れちゃったわよ。
妙にテンション高い…っていうかキャラ壊れ気味だけど、グレンさん大丈夫かねぇ?
桶ハンマークラッシュの打ち所が悪かったか…。ま、あっちはミケちゃんにお任せね。
「あの、すみません…」
「はーい。これはお客様。どうしたニャ?」
「もし余っていたらでいいんですけど、ごはんと適当なおかずをいただけます?」
「みなさんあまり食べないみたいで、ごはんもおかずも多めに余ってるニャ。
ミルクチョコやシフォンケーキみたいな甘いものばかりをおつまみにしているみたいだニャ。
あ、でもリブロースはおかわり入ったかニャ」
「それ何てともg… いや、なんでもないわ。
そっか。それなら遠慮なく使わせてもらうわね。ありがとねぇ」
あたしは浴衣の袖をまくり、あいつのことを想いながら無心に腕を動かした。
「食べてくれる人のことを想って作ると、おいしくできるんだよ」
ついこの間、娘ちゃんに教わったばかりのことを忠実に守る。
料理は苦手だけど、あたしだってこれくらい…
海苔はないみたいだから、そのままでいいかね。
具は何がいいかねぇ… 余ってるおかずといっても、あんまり汁気が多いものはダメよね…。
そして十数分後。
あたしの前にはいくつかのごはんのカタマリが並ぶことになった。
きっとこれを「おにぎり」と呼んだら、世の中の真っ当なおにぎりに非難されそうで…
「ごはんのカタマリ」としか言えないのが悲しかった。
どう贔屓目に見ても、おいしそうには見えない…。つまり失敗作だ。
こんなんじゃ、あいつ食べてくれないかも…。どうしよう…。
しばらく悩んだけど、作ってしまったものを捨てる訳にもいかず、そのまま持っていくことにした。
「フン。あいつが食べなくたって、あたしが食べるわよ。それでいいでしょ?」
そう言ってから、誰にともなくツンツンしている自分が可笑しくて、一人苦笑する。
こりゃツンデレと言われても仕方ないかもねぇと、少し反省。
さっきのネコさんにお借りした風呂敷に包んで持ち運びやすくする。ついでに「鈴音の間」の場所も教えてもらった。
「鈴音の間なら、子猫の間のちょうど真下のお部屋ニャ。どなたか病人が休んでいるみたいで、近づくなと言われているニャ」
「そっか。何から何までありがとうねぇ。助かったわ」
「ゆーあーうぇるかーむ!ニャ」
陽気なネコさんにお礼を言って、あたしは「鈴音の間」へと向かう為厨房から足を踏み出した。
宴会場からは相変わらず笑い声と女性の歌声が聞こえていた。
これはネルさんの歌声だねぇ。あ、BLEA○Hの主題歌か。なるほどねぇ。
§
階段を下りて渡り廊下を通ると、漆黒の夜の景色が目に飛び込んできた。
周囲には民家はない。ただただ漆黒の山並みが連なっているだけの景色が、何となく恐ろしく感じられた。人は本能的に闇を恐れると言うけれど、ひとりで深い闇を見つめている今のあたしにはそれがよく分かる。
外気も相当寒い。隙間から入ってくる身を切るような冷気に身震いする。
──こんなとき、あいつは抱きしめてくれるのかねぇ──
あいつはあのクリスマスの夜に、自分の命を賭してあたしのことを救ってくれた。
仮にも「救世主」であるあたしが、まさかあいつに救われるとは思ってもみなかったわよ。
…そんな強がりを言わないとあいつの顔をまともに見られないくらい、あたしは感謝している。
でも、あいつは…
光刃はあの後、あたしに何の見返りも求めてこなかった。
いや、あのことをネタにして迫ってくるような男じゃないのは分かってるけどさ。
あいつがあまりにも「何もなかった」風に振舞うものだから、あたしもあれは「聖夜の夢」だったんじゃないかって思ってしまうのさな。
ああいう命懸けのイベントを二人で乗り越えたのよ? 少しくらい二人の関係に進展があってもいいと思うのに…。
確かにバレンタインデーの時はチョコを受け取ってくれたけど… あたしも気持ちを伝えられなかったから、義理チョコだと思われているかもしれないし。
あいつにとって、あたしは命を賭けてまで救いたかった存在なんだろうか?
娘ちゃんにお願いされたから、仕方なくやってくれたのだろうか?
ミケちゃんが言っていたような、【ミスリルを冠する者】としての責務に過ぎなかったの?
──あたしのこと、好きじゃないの?──
…ダメだ。ネガティブな思考が止まってくれない。
あいつに会って、面と向かって話をすれば分かることよ。
立ち止まって考えていたって答えは出ないんだから。ほら、さっさと行くわよ。
でも…
あいつは確かに言ったんだ。
【俺はお前の裸など見たくもないし、興味もない】
「…光刃…」
その言葉を思い出して、あたしはその場にしゃがみこんでしまう。
不思議と涙は出てこない。けれど、全身の力が抜けてしまって体が動かなくなった。
「…あたし、こんなところで何してんだろ…」
呆然としながらも、頭だけは働くみたいで…
あたしは少しだけ昔のことを思い出していた。
あの時──
両親の死。生存者としての負い目。周囲の目。そして自殺未遂。
色々なことが重なって、あたしは絶望の淵に立っていた。
あとちょっと重心を傾ければ深淵に落ちるといった状況のときに──娘ちゃんに拾われたんだ。
「あなたは今から【ミスリルの救世主】です」
あたしと一緒になって泣きながら、共に行こうと言ってくれた娘ちゃん。
その太陽のような匂いのする子に抱きしめられると、何故かこの子と一緒なら大丈夫だという根拠のない確信を得られたんだ。
そしてあたしは、娘ちゃんに導かれた先であいつに出会った。
娘ちゃんからあいつのことを聞いた時、そのファーストインプレッションは最悪だった。
何故だか無性に腹が立って、こいつは許せない人間だと思った。
大切な人を殺めておいて、自分も死のうとした。
普通に考えても身勝手で許せない。命を何だと思っているんだろう?
あたしは自分で制御できないくらいの怒りが湧き起こってくるのを感じていた。
でもその一方で、あたしは自分の感情に戸惑っていた。
どうしてまだ会ってもいない人間のことでこんなに熱くなっているんだろう?
会って話をしてみれば印象が変わるかもしれないでしょ?
何をこんなに苛立っているのさ、あたしは…
けど… あたしはすぐに気づいたんだ。その苛立ちの理由に。
あいつがやったことは、あたしもやったことなんだ。
自分の過去を投影したようなあいつ。
封印して見ないようにしてきた自分の過去そのものが、目の前に現れた感じ。
──あたしは自分自身に苛立っていたんだ──
それに気づいてから、あいつとは素直に話すことができなくなった。
やさしい言葉をかけると、まるで過去の自分を肯定してしまうような気がして、いつもキツイことしか言えない。
あいつが変なことをしないように、いつも見ていなきゃ。娘ちゃんからも一緒にいてあげてほしいと言われたしね。
いつも無愛想なあいつ。言うこと成すことすべてが不器用なあいつ。
本当、どうしようもないヤツだと思う。
でも、いつも一緒にいると色々な面が見えてくるわけで。
あたしはあいつの無愛想な顔が、時折やさしい顔になることを発見した。
それは娘ちゃんのことを話すとき。
それは休憩中にペットを眺めているとき。
それはあたしと他愛のないことを話しているとき。
そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか最初に抱いていたマイナスの感情を上回る気持ちを、あいつに対して抱くようになっていた。
そう。あたしはあいつのことがどうしようもなく好きになってしまったんだ。
そして、あのクリスマスイブの時。
あいつはいきなり死に装束で待ち合わせ場所に現れた。
メイジでもないくせに、大きな魔法力を必要とする儀式を一人で執り行おうとした。
危険を顧みず禁呪法にまで手を出して、命懸けであたしを救ってくれた。
本当、どうしようもなくバカなヤツ。あたしのことより自分のことをしなさいよ。
なんで… こんなあたしの為にそこまでできたのよ、あんたは…
【ミスリルを冠する者】としての使命? ううん。きっと違う。
娘ちゃんは、何があっても命を代償とする行為を許さない。
だからあいつは、自分自身の意志であたしのことを救ってくれたんだ。
「…光刃…」
会いに行こう。あいつに。
ちゃんと謝って、顎をさすってあげて…
そして、あいつの気持ちをしっかり聞くんだ。
さっきまで力が入らず腑抜けていたのが嘘のように、今はしっかり立ち上がることができた。
「鈴音の間」まであと少し。ネコの足跡が沢山プリントされた風呂敷包みを小脇に抱えて、あたしは駆け出した。
§
ノックをしても返事はなかった。部屋を間違えたかと思ったけど、ここは間違いなく「鈴音の間」だった。
とすると、あいつはまだ寝ているんだろう。夜行性のあいつのことだ。放っておいてもそろそろ起きるとは思うけどね。
「…入るわよ…」
あたしは何故か忍び足で部屋に入った。堂々と入ればいいのに、どうしてだろうねぇ?
あいつを起こしたら申し訳ないという気持ちがあったからかもしれない。でも、話をするなら起こさなきゃいけないから、結局同じことなのにね。
部屋の中は照明が落とされており、部屋に差し込む月の光だけが唯一の光源だった。
そこは確かに個室だった。そして部屋の中央に置かれた大きめなベッドの上に、光刃が仰向けに寝かされていた。
結構な大きさのベッドだから、光刃の両サイドにはかなりの隙間がある。あたしはそっとベッドサイドに腰掛けて、光刃のことを見つめてみた。
青白い月光に照らされたその顔は、どことなく幼く見えて…
いつもはあんなに鋭い顔をしているのに、今は少年のようなやさしい顔をしていた。
──こいつもこんなかわいい顔ができるのね──
そう思いながら、あたしも自分がとてもやさしい顔をしていることに気づいて、少し頬が熱くなる。いつもは一緒にいても言い合うだけなのに、どうして今はこんなにやさしい気持ちになれるんだろうねぇ。
雲が遮ったのだろうか。月の光が急に弱くなった。
光刃の顔をもっとよく見たいと思ったあたしは、自然と顔を近づける。
安らかな寝息が聞こえるくらいまで近づいたあたしは、今更ながらその距離の近さに気づいて頬の熱が更に増す。
いつもなら顔を赤くしているとこいつに茶化されるから、必死に澄ました顔を作ろうとするけれど。
今は誰もあたしのことは見ていない。だから火照った顔をそのままにして、光刃の滅多に見られない穏やかな顔を見つめ続けた。
何だろう… 頬の熱だけじゃない。さっきミケちゃんと一緒にいたときとは比較にならない胸の高鳴りを感じる。
加えて、下腹部が締め付けられるような、痺れるような切ない疼きも始まった。
ちょっと苦しいくらい。何なのよ、これ…
自分の体の反応に戸惑っていると… 光刃が薄く口を開いた。
そろそろ起きるかしらね。
そう思って少し距離を置こうとした、その時。
「…ミキ… すまない… 赦してくれ… ミキ…」
その声は微かで、ともすれば聞き逃してしまうくらいの小声だったけれど。
あたしにははっきりと聞こえたんだ。
「…光刃、あんた… 起きてる、の…?」
恐る恐る問いかけてみる。でも、起きているようには見えない。
それなら、さっきのは光刃の寝言…ということになる。寝言は見ている夢がそのまま出たり、普段強く思っていることが出ることが多いらしいけど…
どうして…
どうしてあんたが謝るのよ?
謝らなきゃいけないのはあたしの方なのよ?
そう伝えたくて、あたしは光刃を起こす為にさっきよりも近づいた。手を伸ばして頬に触れようとした時、急に月の光が強くなった。
明るい光に照らされて、意外と長い睫の一本一本までくっきりと見ることができた。
──きれいな顔ね──
あぁ… さっきよりも数段頬が熱い。お腹の方も切なさを増している。
あたし具合悪いのかな? どうしてこいつを見ているだけで、こんな風になるのよ…
光刃を起こそうとしていたあたしの手は空中で止まり、その視線は光刃の顔に釘付けになる。
苦しいんだけど、ひとつだけはっきり分かることがある。
あたし、やっぱりこいつのことが大好きなんだ。
光刃にも聞こえているんじゃないかというくらい、心臓が激しい音を立てている。その拍動に同調するかのように、あたしの指先もリズミカルに震えている。
あたしはもっと光刃に顔を近づけて。
そう、光刃の唇にあたしの唇が当たるくらいに近づけて──
キスを、しようとした。
§
もう何も考えられなかった。
あたしはビショップという聖職者で、【ミスリルを冠する者】で──
そんな理性は飛んでしまっていた。
ただ本能的に、光刃の唇が欲しいと思った。
そんなどうしようもない情動に流されそうになった時になって、あたしはようやく気がついたんだ。
──光刃が涙を流していることに──
「…ミキ… ごめん…ごめんな… 俺は…お前のことを…」
あたしは冷水をかけられたような衝撃を感じた。
あたしは今、何をしようとした?
光刃の意志も確認しないまま、自分の情欲を満たす為だけに一方的に奪おうとした──。
「あたし、最低だ──」
ここには光刃に謝りに来たのに。
光刃の思いを聞く為に来たのに。
何をやっているんだろう、あたしは…
あたしはベッドサイドに座ったまま、両手で顔を覆って泣いた。
自分が許せなかった。これじゃただの夜這いじゃないか。
光刃はあたしにとって恩人といえる存在じゃないか。それなのに、あたしは恩を仇で返そうとしたのだ。
こんな弱い自分が情けなくて、涙が止まらなかった。
「…ミキ…」
また光刃の寝言が聞こえる。でも、そちらに顔向けできないあたしはそのまま顔を手で覆い続けた。
「…大丈夫か? どうしたんだ、ミキ…」
「へ…?」
声が意外と近くから聞こえてきたことに驚いて、光刃の方を振り向く。
そこには心配そうな顔をしてあたしのことを見つめている光刃がいた。
「…光…刃… あたし… あた…し…」
「…落ち着け。俺はここにいるぞ。顎は少し痛いがな(苦笑)」
光刃はそう言うと、顎をさすりながらあたしの横に座る。
あたしは先ほどの恥ずかしさと罪悪感から、ちょっとだけ距離を置いて座り直した。
「あ… ごめんなさい。 あんたのこと殴ったりして、さ…」
「…女風呂に入り込んだのは事実だ。あれは当然の報いだと俺も思っている」
「そうだけど… でも、やっぱり殴ったのはやりすぎだったわ。ごめん…」
そう言って、あたしは右手に精神を集中する。
創造の神・アインハザードを象徴する治癒魔法を発動させる。
『此の者にアインハザードの祝福を… << ベネディクション >> 』
ベネディクションは滅多に使わない回復魔法。全員を全回復させる究極のヒールだ。発動条件も厳しくて消費も大きい切り札的魔法だけど、今は光刃の為だけに使いたかった。
「…ありがとうな。痛みが引いてきたよ」
「そう… よかったわ…」
「…魔法など使わなくても…お前がさすってくれるだけで…痛みなど…」
「え…?」
「いや、何でもない… それより、そろそろ涙を拭いたらどうだ」
「あ…」
あたしは気づいていなかったけど、どうやらずっと涙を流していたらしい。
光刃の差し出してくれたハンカチを受け取り、瞳に押し当てる。あぁ、みっともないったらありゃしないねぇ。
でも、光刃だって泣いてたじゃないのよ。あたしに謝りながらさ…
「…あんたもさ、さっき泣いてたわよ。気づいてないだろうけどね」
「…俺がか? …そうか。それは恥ずかしいところを見られたものだな」
そう言ってそっぽを向く光刃。ああ、いつも通り素直じゃないねぇ。
でも、そんなところもかわいい… なんて思うあたしは、相当こいつにやられていると思う。
まったく、どっちがツンデレなのよ。
「あたしに必死に謝ってたわよ。謝るのはこっちなのに、ずっとあんたは謝ってた」
「……」
「どうしてあたしに謝るのよ。教えなさいよ、光刃…」
「…それは…」
光刃はとても困った顔をしていた。羞恥とも違う、本当に困った顔を。
何だろう? 気になったけど、光刃が口を開くまで待とうと思った。
「…すまん、ミキ。あの時は勢いであんなことを言ってしまったが、お前のことは、その…」
「あたしのことは…?」
「み、魅力的な女だと、思っている。だから…」
「光刃…」
「だから、お前の自尊心を傷つけるようなことを言って、すまなかった。もう気に病まないでくれ」
光刃はめずらしくどもりながら、それだけを伝え終わると大きなため息をついた。
そして立ち上がり、月をバックにするように窓際へと移動した。
逆光になって表情がよく見えない。けれど、とても悲しい顔をしていることはよく分かった。
「…ありがと。あたしのこと心配してくれてたのね」
「べ、別に俺は… ただ、人として言ってはいけないことを言ってしまった。そのことに対してだな…」
「ふふっ… ツンデレなあんたもかわいいわよ、光刃」
「……」
ツンデレと言われる側の気持ちが分かったかしら? この流れだとデレツンになるのかしら?
ちょっと意地悪な目でそう訴えると、光刃は一層悲しげな顔をして俯いてしまう。
…いじめすぎたかしらね。この辺りにしておくかねぇ。
あたしは自分の座っているベッドの左側をポンポンと叩いて、そこに座るように光刃に促す。
「…ほら、お腹すいたでしょ。あんた何も食べてないんだし、軽く作ってきてあげたわよ」
「そうなのか。ありがとうな」
風呂敷を解いて、無様な「ごはんのカタマリ」を光刃に差し出す。
食べてくれるかしら… 一抹の不安があったけど、光刃は何も言わず口へと運んでくれた。
「…ん。周りに塩がついてないな」
「あ…」
「…だが、中の具が少し濃い味付けだ。これでちょうどいいんだな… もうひとついいか?」
「う、うん。食べられるだけ食べてちょうだいな」
うれしい──素直にそう思った。
自分が作ったものを好きな人が食べてくれている。これはなんて幸せなことなんだろう。
それはつい先日のバレンタインデーとオーバーラップして、話題としてそのことを出してみることにした。
「この間のチョコも食べてくれたしさ。こんなに食べてくれて、あたしも作った甲斐があったわ」
光刃の動きが止まった。
え… あたし何か変なこと言った?
光刃はゆっくり咀嚼して飲み込むと、食べかけのごはんを見つめながら…
本当に小さな声で呟いた。
「すまない…ミキ。赦してくれ…」
「え…?」
今、何て…?
それ、さっきの寝言と同じじゃないの。
あんたの【興味ない】発言も本心じゃないって分かったんだから、もういいのよ?
それとも…
まだ… まだ何かあるの…?
「…ミキ、お見舞いありがとうな。食べたらまた眠くなってきたよ。俺もまだ完全じゃないようだから、また一休みするよ」
「あ… うん。それじゃあたしも退散するわね。早く良くなりなさいよw」
「ああ… おやすみ」
「おやすみなさい。光刃…」
光刃は動く気配がなかった。ベッドに倒れこむのを見届けてから出ようと思ったけど、何となく居辛くなって先にベッドから立ち上がった。
残りの「ごはんのカタマリ」を風呂敷で包みなおしてテーブルに置く。そして音を立てないように寝室を出て、静かに扉を閉めようとした時。
「ごめんな…」
もう一度、あいつの声が聞こえた気がした。
§
結局、あいつの気持ちを聞くことはできなかった。
どうしてあんなに謝っているのか、その理由さえ聞くこともできなかった。
あれは本当に、あの発言に対しての謝罪だったのだろうか。
分からない… 分からないけど…
いまさら戻って問いただす訳にもいかないし、それはまた今度よね…
まったく、何やってんだろうね、あたしは…
ぼんやりしながら子猫の間に戻ると、もうみんな出来上がっていて女だけの二次会が始まっていた。
娘ちゃんは小さな寝息を立てて奥の方で休んでいる。そのかわいい寝顔を見つめていると、めるりむさんとショートさんの賑やかな会話が聞こえてきた。
「裸を見られたら、やっぱり見た男はケジメで結婚しないとねぇ~w」
「だよね! 常識でしょ~」
「そう…なんだ…」
ミクちゃんが妙に神妙な顔をしていたけど、気のせいかね。ミクちゃんは未成年だからシラフってのもあるんだろうけどさ。
それに裸を見られた、ってことならあの場にいた女性はみんなそうだしねぇ。
まったく、めるさんとショートさんは無理やりフラグ立てようとするんだから…w
「ミコちゃん、どうだったの?」
「え? あー… べ、別に普通だったわよ?」
しふぉんちゃんに急に話かけられて驚いたあたしは、変にどもりながら返すのが精一杯だった。声も裏返ってたし、ちょっと失敗したか。
「あ・や・し・ぃ・なぁ~ ミコちゃんとキスとかしてきらんじゃないのぉ?」
お酒が八合くらい入っていそうなしふぉんちゃんは、いつものぽわぽわした感じに加えて目のキラキラ加減が当社比2倍になっていた。
というか、ろれつが回ってないわよ。大丈夫かしら?
あたしがそう考えている間に、しふぉんちゃんはすりすりとあたしのひざの上に乗っかってきて、いつの間にか「おひざだっこ」状態になっていた。
あら軽い…。 やっぱり見たとおり軽いのね、ドワーフって。
「ちょっ… 何言ってんのさ。あいつはそんなんじゃないって…てか顔近いわよ」
「かくしちゃらめー。どこまでいったの? ねーねー」
「や、だから、あいつとは何もなかったんだってば… え? どこまでってどういうこと?
…こら、ふにふにしないの」
コアラのようにあたしにしがみついて、ふにふにしているしふぉんちゃん。
か、かわいい… だけど、どうしようこの状況。
とりあえずやさしくなでなでしておこうかしら。
「もったいないなぁ。ミケちゃんせっかく気を利かせてくれらのに~」
「ミケちゃんが? 何を?」
一体なんのことだろう?
あたしが「?」という顔をしていると、ため息をつきながらネルさんが教えてくれた。
「…あの部屋、ダブルベッドだったでしょ… つまり、ソウイウコトデスヨ」
「ダブ… えぇーっ!? そ、そりゃ、確かに広いベッドだとは思ったけど、さ…」
『では、頑張ってきてくださいね!』
少し赤かったミケちゃんの顔が浮かぶ。確か部屋を手配したのもミケちゃんよね…?
前 言 撤 回。
ミケちゃんは賢者ってより「ミスリルの策士」ね。これからミサちゃんって呼んでやろうかしら。
変な気の回し方してんじゃないわよ、まったく…
「そ~ん~で~? どっちが受けでどっちが攻めだったん? 言って楽になりなって~w」
めるさんはそう言うと、短剣を装備しシャドーステップであたしの背後にワープ。
ヒュンッ ジャキン!
次の瞬間には二刀(カタナ*カタナ)に持ち替えて、バックスタブしようとしてもがいている…
どうやらめるさんの中で色々と混線しているらしい。
ちょっ… 危ないでしょ? 別の意味で楽になっちゃうわよ。
心の中でツッコミを入れていると、めるさんは何かに目覚めたのか
「ソウルクライ! プロポ!」
を同時に発動させていた。
それ何てブラフマン? お酒の力ってすごいわね。
プロポによって部屋中のふとんやまくら、しふぉんちゃんの護身用の桶がめるさん目掛けてすっ飛んでいく。でも何故か寝ている娘ちゃんとその寝具は巻き込まれていない。
器用ね。
ドサドサッ ボフッ ぱっかーんっ!
「うきゅ~~~…」
めるさんを中心とした直径3メートルくらいのふとんの塊ができあがり…
それっきり、めるさんは静かになった。
熱い戦いだったわ… あたしは何もしてないけどさ。
とりあえず、お腹のしふぉんちゃんを守れてよかったわ。
「いつも通りだと「ミキ×ミコ」だから、ミキちゃんが攻めでFAですね」
目の前の惨状を見て見ぬふりして、ネルさんが冷静に言う。
というか、さっきの会話続いてたのね…。
「…あのミコちゃんが一方的にされちゃうんだ… それはそれでありかな…」
ミクちゃんがボソッとつぶやく。
ミクちゃんの中であたしと光刃は一体どうなっているのかしら。
興味はあるけど、怖くて聞けないわね。
シラフでその発言は危険よ、ミクちゃん。
一方的に… しそうには、なったわよ。確かに。
その時のことを思い出したあたしは、真っ赤になって叫んでいた。
「だーーーっ!! さっき寝ているあいつにキスしようとしたのは未遂よ、未遂っ!
でも、そんな合意もないのに一方的に奪うなんてできるわけな…」
ハッ
「「「「…やっぱり、ミキちゃん…」」」」
はい。完全無欠な墓穴を掘りました。
もうこの後はご想像にお任せするわよ。ええ。
こうして、あたしはミクちゃんに暖かく見守られながら
ニヤニヤした酔っ払い4人に取り囲まれて、夜は更けていくのであった──
DOSANの妻、という人。番外編
温泉旅行、その夜に。 ─完─
and…
Continues to Whiteday Story──.